陰陽師ってなんだ??

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陰陽師で検索すると、ほとんどゲームの解説が検索エンジン上位に表示され、私たちの世代にとっては、「イケメンの祈祷師」と言う印象が強いですよね。

漫画や小説になったことから人気のキャラクターになっていった陰陽師ですが、本来、日本の歴史にどのように存在していたものなのでしょうか?陰陽師の本当の姿を調べてみました。

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陰陽師の始まり

陰陽師は職業というより、もともとは役職を指します。奈良・平安時代に存在した律令制の役職の一つ。推古天皇が在位している602年に百済から訪れた觀勒(かんろく)という僧侶が、聖徳太子をはじめ34名の官僚を相手に陰陽五行説を含む諸学を紹介しました。この思想が日本の国政に大きな影響を与えることになります。

推古天皇は觀勒に大きな影響を受け、日本から中国(当時の隋)に使者を派遣してより多くを学ぼうとします。これが遣隋使の始まりです。

陰陽道の開祖は奈良時代の学者・政治家であった吉備真備(きびのまきび)と言われています。吉備真備は遣唐使として唐にわたり、天文学、音楽、兵学など多くを学びました。その中に陰陽道の基礎となる思想もあったと思われます。

中国から伝えられた様々な学問と日本の思想や神道の要素が混ざり、独自の学問として陰陽道が確立されていきます。陰陽道を司る陰陽師は日本の一大頭脳集団。その名声が頂点に達したのが陰陽師阿部清明(あべのせいめい)です。

職業としての陰陽師

陰陽師は奈良時代の律令制においては中務省配下の陰陽寮に所属し、占筮(せんぜい・竹を使った占い)による占いや地相による土地の吉凶を調べる職務(現在の風水)を担当していました。

陰陽師の筆頭は陰陽博士で、陰陽師見習いに当たる学生の指導に当たり、陰陽寮では他に天文博士(天文を観察し異変があれば奏上する)、暦博士(暦を作成する)と、その指導下にある天文や暦専門の学生たちがおり、時代が進むと賀茂家や安倍家といった陰陽師の家系がこれらの職務を担うことになりました。

その後も陰陽師の歴史は続きます。

平安時代ごろの陰陽師の主な仕事は天文学と方位学による占術で、風水などの方位学や占星術などの天文学を用いて吉凶を占いました。また自然地理学や気象予報にも長け、都市計画暦・節季の予想など、占いばかりでなく現在に通じるような学術的な研究も行っていたのです。

しかし、朝廷の役職の一つである陰陽師は、鎌倉時代中期ごろに朝廷が力を無くしていくと徐々に勢力を弱めていきます。

民間での陰陽道

陰陽師は官僚の役職であり、陰陽道も政治の一部で国家機密でしたが、次第に民間の貴族や一部の庶民にも知られていきました。朝廷以外で陰陽道を説く人を一般に「法師」と言い、その有名な例が播磨の法師蘆屋道満(あしやどうまん・道摩法師)です。

陰陽道は戦国時代にも一部の武将などに重用されたり、江戸時代には幕府から暦を作成する権限を委任され、土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)を形成して神道としての側面も強めていきました。

明治時代に「陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心」とみなされ、陰陽道は禁止されます。しかし第二次世界大戦後、この禁止令が廃止になったことで、陰陽道の一部が生活の中に復活しました。私たちのカレンダーやスケジュール帳にもよく見かける暦注のひとつである六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)も陰陽道の一つです。

まとめ

陰陽道は1985年(昭和60年)に発表された帝都物語という小説で大ブームになったそうです。イケメン陰陽師阿部清明は、夢枕 獏による「陰陽師」が火付け役と言われています。

実際の阿部清明は、銅像や肖像画で見る限りではさほどイケメンには見えませんが、一代で阿部家を陰陽師宗家として確立する、とても有能な人物であったことは間違いありません。

陰陽師が、ただの祈祷や魔術師ではなく、政治の一環としての学問であったことを念頭に入れて陰陽師を観ると、さらに面白くなると思います。

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